ヴェルサイユ条約に対する私見
ヴェルサイユ条約とは、1919年6月28日、パリ講和会議の結果、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿鏡の間で調印された、第一次世界大戦の連合国とドイツの間の講和条約である。1920年1月10日に発効される。これ以降のこの条約に基づくヨーロッパの国際秩序をヴェルサイユ体制というが、敗戦国ドイツに苛酷な負担をしいたこの体制は、1936年にドイツのヒトラー政権がロカルノ条約を破棄してラインラントに進駐することによって崩壊する。
ヴェルサイユ条約の基本姿勢は、①イギリス・フランスなどの戦勝国によるドイツなど敗戦国の再起を抑止する体制であること。特にイギリス・フランスの二国は、戦勝国の立場から敗戦国ドイツに対する過酷な条件を負わせてその再起を抑止すると共に、賠償金を自国の戦後復興に充てることをめざした。②社会主義国ソ連を警戒し、その勢力の拡大を防止する体制であること。大戦中に成立した社会主義国ソヴィエト連邦に対しては、資本主義陣営として強い警戒心を抱き、反共産主義陣営としての結束をめざす側面があった。③世界再分割後の植民地支配の維持と民族運動の抑圧する体制であること。旧ドイツ殖民地を分割し、さらにオスマン帝国領を委任統治という形で分割したイギリス・フランスが、その再分割を維持することをめざした。そのためには、この再分割に不満なイタリアや日本を抑え込み、殖民地における民族闘争を抑圧する体制として機能することとなった。アジアでは中国の五・四運動は明確なヴェルサイユ体制を拒否する運動であった。
ヴェルサイユ条約の成立背景には、連合国である米英仏伊日の各国の思惑が倒錯していた。1919年の1月に始まったパリ講和会議では、会議の中心はウィルソン米大統領であった。彼は公正な仲介者という期待が高かったため、パリ市民から熱狂的な歓待を受けた。彼は世界大戦中から和平を模索し続け、「14か条の平和原則」を公表して「民族自決」「秘密外交の廃止」「国際連盟の設立」などを打ち出した。この「14か条の平和原則」はドイツの降伏を引き出し、講和会議はこの原則をベースにすることになる。しかし、大戦での被害が少なかったアメリカに対して、被害の大きかった英仏がこの原則に「原則賛成、細目反対」で抵抗し、「公正な講和」を目指した本来の内容からずいぶん変わっていくのである。そんな中で、第14条の「国際連盟の設立」はそのまま受け継がれ、1920年に国際連盟が設立された。
当時のイギリスでは、この講和条約は過酷であり、連合国の戦争目的と異なるという批判を労働組合の機関紙を中心に広まる。ライシングをはじめとするアメリカの代表団内部でも、条約が「14か条の平和原則」とかけ離れていると批判する声が高かった。ロイド・ジョージもドイツにとって過酷であると考えており、条約公表前の4月5日に「平和条約は、ドイツがヴェルサイユに来た時に、彼らに手渡される。それ以前に条約が公表されたら、ドイツ政府の立場はとてもありえなくされるだろう。この条約は、ドイツを革命に導くかも知れぬ。」と発言していた。ヴェルサイユ条約批判の」古典ともなっているケインズ著の『平和の経済的帰結』では、条約の目的がドイツを徹底的に破壊し、弱体化させるものであり、条約後の状態を「カルタゴ式平和」と批判した。
ヴェルサイユ条約を中心とする一連の講和条約によって成立したヴェルサイユ体制は、ドイツのシュトレーゼマンによる国際協調路線が採られている間は一定の安定がもたらされた。しかし、1929年の世界恐慌以降は、急速に協調路線が崩れ、ドイツ国内にナチズムが台頭することとなった。また、及び大戦に乗じて帝国主義的膨張をはたした日本、イタリアのファシズムの台頭もヴェルサイユ体制を不安定なものにした。1933年にドイツで「ヴェルサイユ体制打破」をかかげるヒトラー政権が成立し、1936年ドイツのロカルノ条約破棄(ラインラント進駐)によってヴェルサイユ体制は崩壊する。
熾烈を極めた第一次世界大戦の平和に向けた講和条約であるはずのヴェルサイユ条約だが、平和のためという側面は薄く、イギリス・フランスのドイツに向けた復讐という側面が非常に強い印象でした。領土割譲、1320億マルクの賠償金、植民地の返還など当時のドイツにとっては再起不能の大打撃であったため、ヨーロッパでは何百年もの間続けられてきた国家間の勢力均衡を無視した、行き過ぎた報復であると考える。結果として、それらのドイツに対する報復のために、ナチスのポピュリズムによる台頭を防ぐことができずに第二次世界大戦を迎えてしまう訳である。この条約は不完全であることは間違いないのだが、一番の問題点は当時米大統領ウィルソンによって賠償金はなしという方針であったにも関わらず、イギリス・フランスの財政難のために、ドイツが半ば借金の肩代わりをさせられたということである。領土の割譲や人口の減少によって返すことが不可能な賠償額であったため、再び戦争が始まってしまうというのは火を見るよりも明らかであったであろう。